このLOVEHEARTS STORYは、院長池田優子が、その生い立ちから医師としての道を歩むまでの紆余曲折の半生を、ノンフィクションライターが綴ったものです。 2002年に発刊された本ですが、多くの女性に勇気を差し上げることができればと思い、ここに掲載させていただきます。

音羽の杜

医学部受験を決めた池田は、受験勉強に集中するため、文京区・音羽のマンションに果菜子ちゃんと2人暮らしを始めた。
父親の実さんが娘と孫の生活が少しでも楽になるようにと気をまわし、彼女の気づかぬ間に用意してくれた新築マンションの1室だった。
「眼下に音羽の深緑にかこまれた筑波大附属中学・高校を見下ろす、眺めのよい部屋でした。
朝、太陽の光がまっすぐ部屋にさしこむ時間帯が1番好きでしたね。
ベッドで目が覚めると、横には果菜子の安らかな寝顔。
起こさないようにそっと起き上がり、カーテンを開けると部屋中が輝きだすんです。
静かに窓を開け、新鮮な空気を吸い込みながら文京の街並みを眺めると、『どこかで医者になった自分の助けを待っている人がいるはずだ』という強い気持ちになり、1日を生きていく勇気が湧きました。
『日はまた昇る』。
ヘミングウェイが書いた有名な小説のタイトルですが、まさにそういう心境で毎日を過ごしました。
明日への希望だけが精神の拠りどころだったんです」
明日への希望と池田は言うが、医学部に合格する自信はあったのか。
親兄弟が医者だからといっても、現役時代からのブランクが長い30歳目前の池田にとってはかなりの賭だったはずだ。
「難関の医学部ですから1度で合格できるとは思っていませんでした。
ただ、2回受験してダメだった場合は、業種を選ばず就職しようと決めました。
精神的にも経済的にも限界だと思ったからです。不思議と自信はありましたよ。
でも、振り返ってみると、ホントは無謀な賭でしたね」
もっとも気になるのは、実際にどういう生活を送っていたかということだ。
「まず、予備校には通わなかったんです。
東大医学部や慶大医学部を受験するなら通ったかもしれませんが、現役時代から10年近いブランクがあるわたしが、そんな偏差値の高い大学に合格できるなんてハナから思っていませんでした。
正直な話、『医学部』とつくところならどこでもいいと思ってたんです。
どんなところでも医大に合格さえすれば、入学後に一生懸命勉強することによって立派な医師になれるはずだと信じていました。
ですから、高校で使うテキストの内容だけを完璧に頭の中に詰め込むことだけを目標に勉強したんです。
結果的にはその選択は正しかったことになるんじゃないでしょうか。
しかも、勉強は週に5日、1日5時間だけ。
それで十分足りたからです、なんて格好いい理由ではありません。
『ぜったい合格する』という目標を達成すると同時に、『ぜったい果菜子を幸せにする』という誓いを守るためです。
音羽に引っ越してきてから、まずは目白台にある保育園に果菜子をあずけることにしました。
朝9時から午後3時30分までの6時間強です。
娘が保育園にいる時間、わたしはマンションの部屋で勉強をしていました。
勉強に集中するため、埼玉県に住む叔母さんにお願いして、保育園で果菜子になにかあったときは、まず叔母さんに連絡がいくようにしてもらいました。
保育園からの電話を受けた叔母さんが、わたしに要旨を伝えてくれるわけです。
保育園は、微熱やちょっとした怪我でも、必ず呼び出しの電話をかけてくるので、あずけているあいだは果菜子のことを忘れて勉強にはげめるというわけではありません。
幼いころの果菜子は体が弱く、少なくとも月に2、3回は呼び出しがありました。
昼前に呼び出しがあると、有無を言わさず1日の勉強時間が丸つぶれになってしまうので、呼び出しが多い週はめげそうになりました。
それでも、保育園に娘をあずかってもらえたおかげで勉強時間をある程度確保できたからこそ合格できたんだと思います。
なにごともない平和な日は、午後3時すぎに果菜子を迎えに行き、帰りに買い物を済ませ、夕食を作るのですが、それだけでも7時は過ぎてしまいます。
あとは食事をして片づけ、果菜子の保育園の話を聞いたり、いっしょに遊んであげたり......
寝付くのは午後9時過ぎ。
毎日変わりばえはしないし、充実しているという実感はなかなか湧かなかったけれど、愛する果菜子と2人きりで過ごす幸せな日々が続きました。
勉強は週5日と言いましたが、そのほかに土曜日の午前は英語習得の時間にあてていました。
幼いときから家庭教師に着いてもらっていたので英語は得意でしたが、なにせブランクが長いもので、週1回はカンを取り戻さねばと思ったわけです。
でも、日曜日は完全休暇。
週に1回、果菜子と公園に散歩に行くのが最高の喜びであり、気晴らしになりました。
新江戸川公園(文京区目白台)にはよく行きました。
都内でも有数の桜の名所ですが、わたしの記憶に残っているのは桜の時期より少し前、桜の裸木が冷たい風に吹かれ、寂しげに枝を揺らす時期です。
日曜日とはいえ、まだまだ肌寒いので、ほとんど訪れる人もありません。
静かな園内に、ハトの低い声がわずかに聞こえてくるだけ。
気張って過ごした1週間から解放され、娘と2人で遠い田舎に遊びに来たような気分になれました。
園内の丘から見える神田川、池の水面に映る木々、池のそばのベンチに座って食べたお弁当、そして無邪気に笑う娘の笑顔......すべてを色付きで思い出すことができます」
ときどき子連れの夫婦がやってくる日曜の公園。
娘との生活に満ち足りていたから、うらやましいという気持ちはまったく起こらなかった、と池田は強がるが、最後にこう付け加えた。
「果菜子がいつまでもわたしと同じ気持ちでいてくれるかどうかだけは、つねに不安でした。
はじめて両足だけで立ち上がった日のように、突然パパがいない悲しみを知ってしまうのでは......
そう思うと胸が苦しくなるのです」
娘に悲しい思いをさせないためには、たとえ一時でもくじけることは許されない。
池田にできることは、自分を奮い立たせることだけだった。
池田にとって、娘は恋人のような存在になっていった。
果菜子ちゃんと2人で暮らすようになってから、男性に対する特別な感情はいっさいなくなったという。
それはけっして、離婚で男性を信じられなくなったということではない。
池田にとって、娘との生活はまさに人生のすべてだったのだ。
2人の間に亀裂を生じさせるようなあらゆる可能性を排除するためには、すべての異性をシャットアウトするしかなかった。
友人との関係もほとんどすべて断ち切った。
有頂天になっていた結婚生活から、明日をも知れぬ身に転落したことに対する負い目を感じていた部分が、心のどこかにあったのかもしれないと池田は言う。
「でも唯一、ペコ(家田荘子)だけは例外でした。
いろいろあって果菜子が生まれてからは疎遠だったのですが、音羽に引っ越してきてからヨリが戻りました。
彼女はオトコの問題で煮詰まっていて、わたしも離婚で滅入っていて......お互い弱っていたからでしょうね。
弱っているもの同士で、いくらか慰められました。
もう1つ、音羽での生活を慰めてくれたのは音楽。久しぶりにポップスを聞きだしたんです。
中森明菜のヒット曲や荻野目洋子の『六本木純情派』『湾岸太陽族』を聞いてました。
(当時は売上ベストテンを賑わせていた)。どれも淋しげな曲ばかりですが」
結局1年間大きな問題も起こらず、1日5時間の受験勉強、残りは子育てをマイペースで続け、池田は受験の日を迎えた。子供のために生きる親はさすがに強い。
くる日もくる日も受験勉強に明け暮れ、高偏差値のエリート校を狙う若者たちは、彼女の生き様からなにかを学んでほしいものだ。