このLOVEHEARTS STORYは、院長池田優子が、その生い立ちから医師としての道を歩むまでの紆余曲折の半生を、ノンフィクションライターが綴ったものです。 2002年に発刊された本ですが、多くの女性に勇気を差し上げることができればと思い、ここに掲載させていただきます。

英才教育を受けた義務教育時代

池田は英才教育の例にもれず、3歳から日本舞踊とバレエの教育を同時に受け始めた。 バレエはしばらくして「肌に合わないので」やめるが、日本舞踊のほうは早くも才能が開花。 茨城県・古河市内の小学校に入学した翌年、 なんと小学2年生にして若柳流の"名取(芸名を名乗ること)"を許された。 名取への昇格試験は原則として中学生以上でないと受けられないことになっているが、 師匠が池田の才能を見込んで特別推薦し、彼女も師匠の期待にこたえて一発合格したのだという。 続いて出場した「全国舞踊コンクール」では大人たちにひけをとらない演技を披露し、入賞も果たしている。 その快挙は当時の東京新聞にも取り上げられた。 母親の汎子さんは幼少のころの池田についてこう語る。 「生まれたときからほとんど泣かない子でしてねえ。 そのせいか、落ち着きがあって、非常に頭のいい子に見えました。 できれば夫のような医師になって欲しいと思い、早いうちからそれなりの教育を受けさせようと考えておりました。 義務教育を受けている間は、わたしの教育に対して反抗するようなことはなかったんです。 ただ、実際に優子がこんな"ド派手な"医者になってしまった今になってみると、 優子を医者にしようと続けた厳しい教育は、娘の人生にとって本当に良かったのかどうか分かりかねるのです...... むしろ医者ではなく、娘の希望通り女優にでもなってくれればよかったと(笑)」 そんな汎子さんの教育のおかげか、小・中学時代の池田はまさに"神童"だった。 週に約2回の日本舞踊のけいことともに、 汎子さんの勧めに従って小学4年生からは名門予備校『四谷大塚』にも通い始めた。 「茨城県計算能力大会」では小学5年、6年と連続で1位の栄冠に輝くなど、 日本舞踊だけでなく学業でも才能をいかんなく発揮した。 せっかくの才能を田舎で眠らせるのはもったいないと考えた汎子さんは、 池田を埼玉県・浦和市内の名門公立中学に越境入学させる。 埼玉県のみならず北関東圏でも屈指の学力といわれるこの中学で、池田は学年1位を守り続ける。 定期的に行なわれる首都圏の統一模擬試験でも常に好成績を残した。 「はっきりいって、ただの"ガリ勉"だったんですよ(笑)。 ふだんは髪をポニーテールに結った髪と地味なファッション。 古河と浦和を電車で毎日往復し、休日は日本舞踊のけいこ。 よく行くところといえば本屋さんと文房具屋さんでした。 切手収集用のノートやら日記帳やらを物色するのが好きだったんです」 本人だけでなく、小学校の同級生だった男性もこう言う。 「あまり細かいことは記憶にないけど、ポッチャリ気味で背がわりと大きいコだったのを覚えてる。 ずっとクラス委員をしていて、校内ではちょっとした有名人。 でも、もの静かな優等生といった感じで、目立とうとするタイプではなかったよ」 しかし、英才教育を受けた"模範生徒"の仮面の下で、 池田の心はすでに外に広がる大きな世界を向き始めていた。